2018年2月26日月曜日

身体が軽い!

風鼓さんが居ないというのは、こんなにも楽なのかと親不孝な事を思った。けど、この二日間は、思いっきり羽根を伸ばさせてもらった。疲れるまで歩いて、寝落ちるまで飲んで、料理もほとんどせず、ゆっくり過ごした。で、帰って来る今朝になって、気持ちは重い。(-.-) よっぽど親不孝に出来ているようだ。

昨日は、飛鳥寺西方遺跡現説に往復歩いて行ってきました。10年間、連続した調査は終了だそうですが、謎を残したままの終了! もう少し決着してから終わってよ!! と改めて書いてみる。(笑) 
現説の様子 10:00スタートの1回目
顔見知りの方も多かった。
件の建物跡
現地に立っても、何であんな場所に大型の建物が? とそればかり思っていた。現在の農道を隔てて、両側の土の色が明らかに違う。飛鳥川寄りは川砂の色、一方東は濃い土の色をしている。つまり、西側は飛鳥川の氾濫を受けているのです。そのような低地に、8間以上の大型建物を建てるだろうか・・・。

現説資料より
中心から右と左では、色が違うのがはっきり出ています。何段かに分かれて、飛鳥川の氾濫が段差を作っているのも分かりますね。良い加減に影が付いてわかりやすい。

どう考えてもσ(^^)は納得できなかった。一時的な建物とか、建物ではない! と考えるのが良いのではないだろうかと。建物の両端が出てないので、建物だとは断定出来ないよなと思ったりしていました。塀! って線もあるよね。

広場の西端で、儀式を望む・宴を催す場所ってことはσ(^^)にはあまり考えられなかった。西端なら、南北棟にして、広場の中心部を見るような形ならまだ分かるように思うのだけど。(^^ゞ で、水落遺跡が漏刻台でなかった時期の建物との関連はどうだろうかと思って、マップを見てみると、やっぱ西に寄りすぎていて、全体としてやはり纏まらないような感じがした。で、次は、以前に検出された厩舎? とはどうだろうかと思ったのだけど、兵舎とかはどう? と考えてみたのだけど、こんなサイズの建物が必要だとは思えないのですよね。(^^ゞ 詳細な遺構時期が分からないので、なんとも言えないね。やっぱ、周辺をもうちょい掘って。m(__)m なんだか、長生きしたくなった。(笑)
榛原石だって
周辺の石を含めて、熱を受けているのか赤かった。
後、興味を引いたのは榛原石を使った窯・釜跡でした。飛鳥時代以降のものだそうだけど、平安時代までは、このスペースは残されていたので、普通の煮炊き用のものではないでしょ!? 儀式用の土器を焼いてた? お供え用の食べ物用とかか。掘立柱建物の近くにあったので、その建物との関連はどうなんだろう。

次号飛鳥遊訪マガジンにて、これらの答えの一部が書かれているかも知れません。(笑) あい坊先生の”旬”のご寄稿を、ご期待下さい!


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