2026年2月21日土曜日

道長の飛鳥行 5

 堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及 2

その4を簡単にまとめ直していますので、

内容的に重複している箇所があります。m(__)m

その5は、系図下より始まりますが、出来ればトップから。


「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及。」

さて、皆さんは、これをどう読みますか?

これは、道長が山田寺を訪れた際に語ったとされる言葉です。
『扶桑略記』にはこうあります。

十九日。堂塔を覧る。
「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及。」
御馬一疋を権大僧都扶公に給ふ。

一般には、

「堂中は以って奇偉荘厳にして、言語云うに黙し、心眼及ばず」

と読まれているようです(奈文研報告書「山田寺」)。

ちなみにAIに聞いてみると、

  • 堂内は奇偉荘厳で満ちている

  • 言葉では言い表せない

  • 心の目でも及ばない

――要するに、「あまりに素晴らしい」という感嘆だという説明でした。

なるほど、もっともらしい。

けれど、私は長い間、どこか腑に落ちませんでした。


読みが変わると、意味が変わる

以前、両槻会で滝川幸司先生からこの一文を教わりました。
先生の読みはこうでした。

「堂中奇偉を以って荘厳す。言語云に黙し、心眼及ばず」

正直に言えば、その時の感想は――

どこが違うねん! でした。

しかし十八年越しに、やっと真の意味に気づきました。

「荘厳」が名詞ではなく、動詞になっている

「奇偉である」のではなく、

「奇偉をもって荘厳している」

主体が動いているのです。

ここで、風景が変わります。


そもそも、そこまで感動する?

私が最初に抱いた疑問は単純でした。

嘘やろ。大げさな。

道長は、南都の大寺院を見慣れた人物です。

さらに平安京の大寺院も知っている。

その道長が、衰退していたであろう山田寺を見て、

「言語云黙、心眼不及」

とまで言うだろうか?

ここが、どうしても引っかかりました。


山田寺という存在

山田寺は蘇我倉氏の氏寺です。

壬申の乱以後、蘇我氏は衰退し、石川氏へと改姓します。
奈良時代に一時盛り返しますが、平安に入る頃には公卿層から姿を消します。

石川氏(蘇我倉氏)系図
クリックで拡大します。


山田寺の維持は、相当に困難だったはずです。

荒廃していた可能性は十分ある。

それなのに、「奇偉荘厳」なのか?


ただし、弱点もある

もちろん、私の疑問にも弱点があります。

古い仏像や堂宇には、新しい建物にはない威厳があります。
長い時間を経たものだけが持つ重み。

飛鳥という土地そのものが持つ宗教的気配。

法正寺を造営中だった道長にとって、
仏教の原点の地で何かを感じた可能性も否定できません。

それでも――。

私は、この一文の一般的解釈に違和感を感じてしまうのです。


私が引っかかった文章

もう一度、『扶桑略記』を見ます。

御馬一疋を権大僧都扶公に給ふ。

なぜ、山田寺訪問で、
興福寺の僧に馬が下賜されるのか。

ここに、強い違和感がありました。

馬の下賜は、単なる移動手段ではありません。
明確な功労への報奨です。

扶公とは

扶公は平安中期の興福寺僧。
法相を学び、少僧都、権大僧都へと昇り、のちに法印に至ります。
藤原氏との関係も深い人物です。

では、なぜ彼が報われたのか。


ひとつの仮説

(ここからは推測です。)

もし、この賛辞が堂宇や仏像そのものではなく、
その日、堂内で作り出された宗教空間全体に向けられたものだとしたらどうでしょう。

「堂中奇偉を以って荘厳す。」

堂内が奇偉なのではない。
奇偉をもって荘厳している。

誰かが、荘厳している。

もしその演出を担ったのが扶公であったなら、
馬の下賜は自然に理解できます。


道長と興福寺

藤原氏の頂点に立つ道長。
その氏寺である興福寺。

山田寺という飛鳥の古刹で、
藤原氏の宗教的演出が行われた可能性。

妄想かもしれません。

けれど、

「堂中奇偉を以って荘厳す。」

と読んだとき、
この情景は、私の中で、急に立体的になったのです。

                           つづく


みちなが君


2026年2月20日金曜日

道長の飛鳥行 4


 「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及。」

 さて、皆さんは、これをどう読みますか?


 道長が、山田寺来訪時に語ったとされる言葉ですが、扶桑略記には、「十九日。堂塔を覧る。"堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及"。御馬一疋を権大僧都扶公に給ふ。」とあります。

 「堂中は以って奇偉荘厳にして、言語云うに黙し、心眼及ばず」と読まれるのが一般的だとされます。(奈文研報告書解釈)

 ちなみにAIに聞いてみると、以下のように説明しました。

「堂中」:堂の中。

「以奇偉荘厳」:奇偉荘厳をもって(堂内が)満ちている意。

 奇偉: 他より抜きん出て優れていること、珍しく立派なこと。

荘厳: 重々しく威厳があり、おごそかなこと。

「言語云黙」:言葉にすれば黙するほかない、言い表せない意。

「心眼不及」:心の目をもってしても及ばない。

全体として、堂内の荘厳があまりにすぐれていて、言葉にも心にも尽くしがたい、という感嘆を述べた文です。

 

 私は、漢文など読めないのですが、素晴らしい先生方に恵まれるという類まれな運を持っています。漢文のプロである滝川幸司先生に、両槻会でこの文章を教えていただいたことがあります。先生は、平安文学の専門家です。

 先生は、「堂中奇偉を以って荘厳す。言語云に黙し、心眼及ばず」と読まれました。


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 私など門外漢には、どこが違うねん! と言った感じだったのですが、今では、こちらが素直に頷けるようになりました。「荘厳す。」と動詞として訳されている所が大きな違いになるのですが、18年越しに、やっと、そこに気づいた次第です。(^^ゞ

 ここでは、文法的な説明(漢文の特徴的な表現や対語の説明など)は、潔く切り捨てますが(おい!)、私流の理解を書いてみようと思います。またしても、奈文研さんに逆らいます。m(__)m

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 この文章に接して一番最初に思ったことは「嘘やろ!」「大げさな!」でした。南都の七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)や煌びやかな平安京の大寺院を見慣れた道長が、荒廃が進んでいるだろう山田寺を見て、こんな風に感激するのだろうかということを思いました。

 山田寺は、見てきたように蘇我倉氏の氏寺です。しかも、蘇我氏は壬申の乱を経て、急速に衰え、安麻呂の頃に八色の姓の制度導入を機に、「蘇我」から「石川」を名乗るようになったと思われます。

クリックで拡大します

 奈良時代の系図を見てみると、藤原四兄弟の死を機に、石川氏は一時的に上級官人として盛り返した印象がありますが、それを最後に中級官人層に埋もれて行きました。また、後ろ盾となった天武天皇の系統から、天智天皇の系統へと言う皇統の変化もありました。平安時代に入ると、名足(なたり)の子である真守(まもり)が官位は正四位上・参議に列しますが、彼を最後に公卿にも列することがなくなり、蘇我一族の系統を追う事が難しくなります。

 彼らに、山田寺を維持してゆくことは、かなり厳しいことだったのではないかと推測されます。


 私が抱いた疑問には、大きな弱点があります。奇偉荘厳が、「他より抜きん出て優れていること、珍しく立派なこと。重々しく威厳があり、おごそかなこと。」であるとするなら、長い時を経て古色を帯びた仏像や、歴史を刻んだ古いお堂には、新しい建物にはない威厳が宿ります。仏教発祥の地で見るそれらは、一層の威厳や仏教的な感銘を与えたとするのも、飛鳥好きの私にはよく理解できる点であります。

 特に、心血を注いでいる法正寺を建造中の道長にとって、仏教への原点回帰を促したのかも知れません。

 しかし、「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及。」の解釈は、やはり自説に拘りたいと考えています。それは・・・。

                            つづく





2026年2月19日木曜日

道長の飛鳥行 3

 

間違いじゃないかな?

 山田寺の報告書を読んでいて「おや?」と思ったこと

 2002年に発行された『山田寺発掘調査報告』を、冬期オリンピックの熱戦を応援しながら読んでいたのですが、第Ⅱ章の「山田寺の沿革」で、どうしても手が止まってしまいました。


 今、ちょうど一番関心がある部分なので、余計に気になったのかもしれません。「これは書き間違いではないかな?」と思う箇所を見つけたのです。


(参照https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/897/1/BA58070016_005_018.pdf

 P11 道長来訪 以下引用文


 治安3年(1023)10月、藤原道長は子の教通らを従えて、南都の諸寺と紀伊高野山に参詣した。その状況は『扶桑略記』に最も詳しい。それによれば、10月17日に京を立ちその日は東大寺に泊まり、翌18日は東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・法蓮寺を経て山田寺にいたる。山田寺に関係する部分は次の通り。「次いで山田寺に御すも、すでに夜に入る。前常陸介維時参り来たり、大僧都扶公・威儀師仁満ら、飯膳を弁備す。十九日、堂塔を覧ず。堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず。御馬一匹を権大僧都扶公に給う。」このあと道長一行は、本薬師寺・橘寺をへて龍門寺へ向かっている。:奈良文化財研究所 埋蔵文化財センター『山田寺発掘調査報告』P11)


 この最後の「本薬師寺」という部分ですが、正しくは「本元興寺(飛鳥寺)」ではないでしょうか。

 道長の旅の様子が詳しく書かれている『扶桑略記』を読んでみると、こうあります。

「十九日、山田寺、本元興寺、橘寺を覧て、竜門寺に到着し、宿泊」

「次に本元興寺に御す。宝倉を開きて覧しむ。(後略)」

 これを見る限り、道長が訪れたのは「本元興寺(現在の飛鳥寺)」で間違いなさそうです。おそらく、報告書を作成する際に、名前が似ている「本薬師寺」と書き違えてしまったのかもしれません。


 当時の旅程を考えても、飛鳥から吉野(龍門寺)を目指す途中で、西にある本薬師寺(現在の橿原市城殿町あたり)まで戻るのは、かなり遠回りになってしまいます。

 ただでさえ、この日の道長一行は、龍門寺に着く頃には夜になっていたようです。崖沿いの山道を歩く、なかなかスリル満点な強行軍だったはずですから、時間のかかる寄り道は難しかったのではないでしょうか。

 専門的な報告書の中にも、こうした「迷い込み」のような記述があるのは面白い発見でした。さて、この報告書については、もう一つ気になる点があるのですが……。少し長くなりそうなので、続きはまた改めて。


                        つづく  

みちなが君

  


2026年2月18日水曜日

道長の飛鳥行 2


道長の飛鳥行 2

山田寺での宿泊

 治安3年(1023年)、藤原道長は高野山参詣の途次、山田寺を訪れて一泊しました(『扶桑略記』)。  山田寺は、舒明天皇13年(641年)に蘇我倉山田石川麻呂が発願し、氏寺として建立を開始した寺院です。大化5年(649年)の石川麻呂の自害により造営は一時中断されましたが、その後に再開され、天武天皇14年(685年)頃には塔、金堂、回廊が完成しました。その伽藍は、講堂が回廊の外に位置する独自の構成をとり、「山田寺式伽藍配置」として知られています。

 道長が訪れた1023年当時の山田寺は、創建から約350年が経過していました。10世紀以降は、次第に衰退の途を辿っていた可能性が高いと考えられます。

伽藍完成期の山田寺のイメージイラスト (風人作・画像生成AI 使用)
(画像をクリックすると拡大します)


 では、なぜ道長は、山田寺を宿泊地に選んだのでしょう。 翌日に訪れる飛鳥寺と山田寺の距離は約2キロメートル弱であり、徒歩でも20分程度、騎馬であればさらに短時間で移動可能です。また、南門を出て南進し八釣集落を経て竹田道を通れば、より短距離での移動も可能であったことを踏まえると、移動距離や行程の都合が宿泊地選定の決定打であったとは考えにくいでしょう。

 また、飛鳥寺は官寺としての格式を保っていたのに対し、山田寺は皇室ゆかりの寺とはいえ、基本的には氏族の寺(氏寺)です。寺格の上では飛鳥寺が勝っていたと考えられます。


 そこで注目すべきは、前回検討した「随行者を含めた一行の規模」です。

 和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い、飛鳥寺は寺籍を新都へ移し、元興寺となりました。本尊の飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)や主要な堂塔は飛鳥の地に残されましたが、一部の部材や屋根瓦は平城京の元興寺へ移築・転用されたことが、現在の元興寺極楽坊などの遺構から確認されています。

 平城京での律令体制下における国家仏教の再編において、最も早く必要とされたのは僧侶の居住空間(僧坊)や実務機能を持つ施設でした。

 これらを踏まえると、平城京への移築に際して優先的に解体・移動されたのは、大人数を収容する機能を持つ「僧坊」であった可能性があります。

 もしそうであれば、道長の時代、飛鳥に残った旧飛鳥寺には、本尊を安置する堂塔はあっても、一行50名前後を収容できるだけの宿泊施設が十分に整っていなかったのではないでしょうか。

 山田寺は、どうであったかと言うと、建久8年(1197)に静胤が著した『多武峯略記』によると、多武峯の末寺として山田寺が次のように記されている。

 「石川寺 法号花厳寺、奮記云、蘇我山田石川麻呂大臣建立也云々、堂塔 僧坊 鐘樓 経蔵等跡皆在之、昔者大伽藍也」 昔は、大伽藍であったけれど、今は、堂塔など堂宇は”跡”になっている。しかし、長元 5年(1034)に検校の善妙が石川麻呂の忌日に法華八講を行ったこと、堂塔・僧坊・鐘楼・経蔵跡が今も残っていることを伝えています。

 このように、確実な証拠は残されていませんが、これが道長一行が山田寺を宿所とした理由の一端だと私は考えます。     

                              つづく  





2026年2月16日月曜日

道長の飛鳥行 1


道長の飛鳥行 1


 藤原道長は、寛弘4年(1007年)、42歳の時に大和国の金峯山(山上ヶ岳)へ参詣し、自筆の経典を埋納する「金峯山詣」を行いました。当時の実権掌握者であった道長が、極楽往生や家門の繁栄を願い、険しい修験の聖地へと挑んだこの旅の様子は、自身の執筆による『御堂関白記』に詳述されています。平安京から飛鳥を経由して吉野へ至る道程において、往路の宿泊地として安倍寺を利用したこと、また飛鳥寺を訪れていることが記録されています。路程の詳細は不明ながら、地形から判断して、おそらく芋峠を越えて世尊寺に向かったものと思われます。そして、吉野山を経て、標高約1,719メートルの山上ヶ岳に至る過酷な行程の最終区間を、道長は自らの足で踏破しました。

 こちらも興味深いのですが、この行程はこれ以上、触れずにおきます。


 次いで治安3年(1023年)、晩年の道長(当時58歳・没年は1028年)は高野山金剛峰寺を参詣しました。その途次、飛鳥の寺院を訪れたことが『扶桑略記』に記録されています。(山田寺・飛鳥寺・橘寺 )

 道長はこれに先立つ寛仁3年(1019年)に出家していますが(※注:寛仁元年説もあり)、政治的影響力は依然として保持していました。この1023年は、道長が心血を注いだ法成寺の造営が進められていた時期でもあります。

 なお、翌年万寿元年(1024)には、初瀬詣を行い、長谷寺に7日間参篭しています。 平安時代前期に始まった貴族の初瀬詣や大和参詣において、道中の通行体制は一定の整備が進んでいたと考えられます。道長が1007年に安倍寺、1023年に山田寺と、いずれも飛鳥・桜井近辺の有力寺院を宿泊拠点としている点は、これら有力寺院が参詣ルート上の要衝として機能していたことを示しているのかも知れません。


 道長は、寛仁4年(1020)に出家し、法成寺(無量寿院)を拠点として、政治の第一線からは退いていました。 (1017年に摂政、1018年に太政大臣をそれぞれ辞任し、長男の藤原頼通に摂関の地位を譲っていました。)

 しかし、実権は依然として道長が握っており、幼い後一条天皇の祖父として、「御堂関白」と称される最盛期を過ごしていました。 

 そのような状況の中での飛鳥行ですので、道長一行が少人数であったはずはないと思い、一行の規模を調べてみました。しかし、『扶桑略記』は編年体の史書であり、出来事の要点を簡潔に記す性格が強く、詳細な記録はみつけることができませんでした。

 調べた限りでの推測にはなりますが、一行はかなりの大人数になったのではないかと思われます。道長は当時なお摂関家の頂点にあり、殿上人・近習・侍所的随員・僧侶・雑色・従者を伴うのが通例のようです。

 他の摂関家外出例や院御幸記事を探してみると、宮中近距離移動では20~30人規模、遠出・寺社参詣では30~70人規模が妥当な範囲と考えられ、総勢50名前後という規模が妥当な数字ではないかと思われます。

 当時、この規模の宿泊者が利用できるのは、大規模な寺院以外には無いと思われます。実際にも、南都の大寺や安倍寺・山田寺・世尊寺・龍門寺などが宿泊地となっています。

                              つづく