2026年2月11日水曜日

『日本霊異記』第三縁 飛鳥弁訳

飛鳥弁訳(飛鳥地域の方言を強調して使用しています。)

『 日本霊異記(日本国現報善悪霊異記 )』  上巻 第三縁


「雷の憙
(おむがし) <喜び> を蒙(こうむ)りて、生まれた子に強い力のあった話」


 これな、ほんまに昔の話やと、飛鳥ではそう言われとる。 敏達天皇さんの御代のころのことや、いうこっちゃ。

 尾張の国、阿育知郡(あゆちのこおり)片蕝(かたわ)いう里にな、百姓が一人おったんやと。 その百姓が、田こしらえて、水引こうとしてたときにな、雨が急に降ってきよってな、木の下へ寄って、雨宿りしとったんや。 鉄の杖を地面に突いて、じっと立っとったんやと。

 そしたらな、急に雷が鳴りだしてな、 百姓も、こらえらいこっちゃ思て、 鉄の杖を、そっと高う掲げたんや。 ほしたら、その前へな、雷が落ちてきて、 子どもの姿になって、地べたへ伏したんやと。

      農夫作田、將引水時、小雨忽降、乃立於樹下、以鐵杖柱地而立。
(画像をクリックすると拡大します。)

 百姓が、杖で突こうとしたら、 雷がな、こう言うたんや。

 「どないか、殺さんといてくれ。 あとで、きっと恩は返すさかい」 百姓が、「ほな、どないして返すいうんや」言うたら、 雷が答えてな、 「お前の家にな、子が宿るようにしたる。  その代わり、楠で水槽(みずぶね)こしらえて、 水張って、竹の葉浮かべてくれ」 こう言うたんやと。

 百姓はな、その言葉どおりにして、 水槽こしらえて、きちんとまわり(用意)したんや。 雷は、「もう、これ以上近う寄ったらあかんで」言うて、 雲と霧を立てて、天へ帰っていったんやと。

そのあとにな、百姓の家に子が生まれたんやが、 その子の頭には、蛇が二重に巻きついとってな、 首も尾も、背中の方へ垂れとった、いう話や。


後農夫得子、其頭有蛇重纏、首尾並垂於背。

 その子がな、大きなって、十(とお)ばかりになったころや。 都には、えらい力の強い人がおる、いう話を聞いてな、
 「一度、試してみよか」思て、都へ上ったんやと。 御所の近くに住んで、よう様子見とったらしい。 そのころ、王(おおきみ)さんの中にな、 とびきり力のあるお方がおって、 御所の東北(うしとら)の角の別院に住んどられた。 その東北の角にな、八尺(1尺=0.3030m)四方の石が置いてあったんや。 その王さんがな、住まいから出てきて、 その石を持ち上げて、えいやっと投げてな、 また屋敷へ戻って、門閉めてしもたんやと。

 それ見た子はな、 「ああ、有名な力持ちいうたら、この人のことやろ」 そう思たんや。 夜になってな、人に見られんようにして、 その石を持ち上げて投げてみたら、
 王さんより、一尺も先まで飛んだんやと。 王さんはそれ見てな、 悔しそうに手をすり合わせてから、 もう一度石投げたんやが、 距離は前と変わらなんだ。 子がまた投げたら、 今度は二尺も余計に飛んだ。


王復投之、不及前。童子再投、過王二尺。

 王さんも、もう一度投げてみたけど、 やっぱり及ばん。

 子が立っとったとこ見たらな、 足跡が三寸ほど、地にめり込んどったんや。
 石も、王さんより三尺も先まで飛んどった。 王さんはそれ見て、 「ここにおる子が投げたんやな」悟ってな、 捕まえようと近寄ったんや。 せやけど、子はすぐ逃げよった。

 王さんが追うと、 子は垣根をくぐって逃げる。 王さんが垣根越えたら、 子はまた別の垣根をくぐって逃げる。 とうとう王さんも捕まえられんでな、 「この子は、わしより力ある」思て、 それ以上、追うのやめた、いう話や。

 

 その後、その子は元興寺(飛鳥寺)の童子となった。

後爲元興寺童子



 そのころ、寺の鐘堂ではな、 夜ごと鐘つきが命落とす、 そないな怪しいことが続いとった。 それ見た童子が、坊さんらに言うたんや。 「わしが、この災い止めたる」
 坊さんらも、それ聞いて、任せてみよ思たらしい。

 童子はな、鐘堂の四隅に燈火置いて、 そこに人立たせてな、 「鬼捕まえたら、いっせいに蓋開けてくれ」 そう言い含めた。 それから、鐘堂の戸口に座って待っとった。 真夜中ごろ、鬼が来よったんやが、 童子の姿見て、一度は戻った。
 せやけど、夜明け前になって、また入って来よった。 童子はな、鬼の髪つかんで、ぐっと引いた。 鬼は外へ逃げようとし、 童子は中へ引き込もうとする。

 燈火の前におった人らはな、 怖うて動けんと、 蓋開けることも出来なんだ。

 童子は、鬼を四隅へ引きずっていってな、 一つ一つ、自分で燈火の蓋開けた。 夜が白んできたころ、 鬼は髪をすっかり引き剥がされて、 そのまま逃げていったんやと。

童子執鬼髮、至曉剝盡、鬼遂走。

 そのあと童子は、優婆塞(うばそく・在家のままで、仏道修行にはげんでいる人)になってな、 そのまんま元興寺(飛鳥寺)におるようになった。

 寺では田作って、水引いて耕しとったんやが、 王さんらがそれ邪魔して、水せき止めよった。 田の水が干上がったときにな、 優婆塞が言うたんや。 「わしが、水引いたる」 坊さんらもそれ聞いてな、 十人がかりで持つほどの鋤の柄こしらえて、 優婆塞に持たせた。

 優婆塞はその柄を杖みたいについて行ってな、 水門の口へ突き立てたら、
 寺の田へ水が流れ出したんや。 王さんらはそれ見て、 柄引き抜いて、水門ふさいで、 また水止めよった。

 ほしたら優婆塞がな、 百人余りで引くような重たい石持ち上げて、 王さんらの水門ふさいで、 寺の田へ水入るようにしたんやと。

 王さんらもな、 その力見てしもて、 「これはかなわん」思たんやろ、 それから先は、もう邪魔せえへんかった。 おかげでな、寺の田は水に困らんで、 よう実った、いう話や。 


優婆塞以巨石塞王水門、寺田得水。

 おかげでな、寺の田は水に困らんで、 よう実った、いう話や。 そこで坊さんらがな、 優婆塞の得度(正式に僧になること)許して、 「道場法師(どうじょうほうし)」いう名つけたんやと。

 後の世の人が、 「元興寺の道場法師は、 これ以上ないほどの強力やった」 そう言い伝えとるんは、 みな、この話がもとや。

 こないな力を授かったんもな、 前の世で、よう善い行い積んださかいや、
 そう思うとき、いうこっちゃ。

 これも、日本の国に伝わる、 不思議な話の一つやと、 明日香村では、じょうだり(常に)、語り継がれとる。


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和田池という「終着点」

和田池のまとめ


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なぜ和田池は「終着点」に選ばれたのか

和田池が単なる農業用の溜池ではなく、飛鳥時代の大規模な導水システムの終着点であった可能性を考えるとき、鍵となるのは「なぜ、数ある場所の中で和田なのか」という点です。この問いは、地形条件・水利技術・政治的空間の三つを重ね合わせることで、はじめて見えてきます。


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1. 地形的条件:水を「貯める」のに最も適した谷


まず第一に、和田池の立地そのものが、溜池の終着点として非常に優れています。

和田池が築かれている場所は、甘樫丘から西へ延びる丘陵の末端部にあたる谷間で、西・東・南の三方を自然の丘陵に囲まれています。開口部は一方向に限られており、そこを堤防で塞ぐことで、効率よく水を貯めることが可能です。

このような「谷池」の地形は、古代の溜池築造における典型的な立地であり、少ない労力で大きな貯水量を確保できるという点で、極めて合理的です。つまり和田は、「ここに池を作れば水が貯まる」ことが、地形を見れば直感的に理解できる場所だったと言えます。


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2. 標高条件:導水の“限界点”としての合理性


次に重要なのが、標高の問題です。

これまで見てきたように、豊浦堰付近から甘樫丘北裾の豊浦隧道を経て和田池に至るルートは、終始ゆるやかな下り勾配が保たれています。これは偶然ではなく、自然流下で水を運べる“下限”が、ちょうど和田池付近にあったと考えるのが自然です。

和田池より西側へさらに水を運ぼうとすると、地形は開け、標高も下がり、溜池として水位を維持することが難しくなります。

つまり和田池は、

• 水を落としすぎず

• かつ自然流下を維持できる

導水システムの物理的な終点に位置していた可能性が高いのです。


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3. 水利の性格:配水拠点としての終着点


和田池が「終着点」であるということは、必ずしも「そこから先に水が行かない」という意味ではありません。

むしろ重要なのは、和田池が 水を一度集約し、再配分するための拠点であった可能性です。

引水によって運ばれてきた水は、直接田畑へ流すのではなく、まず和田池に貯められる。そこから、

• 周辺の農地へ安定的に配水する

• 旱魃時にも一定量の水を確保する

といった調整が可能になります。

この点で和田池は、単なる「貯水槽」ではなく、地域全体の水利を制御する結節点として機能していたと考えることができます。


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4. 政治的・空間的意味:蘇我氏の中枢に近い場所


さらに見逃せないのが、和田池の位置と、蘇我氏の本拠地との関係です。

和田・田中町一帯は、蘇我氏の居住域・勢力圏と深く結びついた場所であり、飛鳥寺や宮殿空間とも地理的に近接しています。和田池を終着点とすることで、

• 蘇我氏の直轄的な土地を潤す

• 寺院・宮都を支える農業基盤を安定させる

という、政治的に極めて合理的な水利配置が実現します。

言い換えれば、

「水の終着点=権力の中枢に最も近い場所」

であること自体が、和田池の役割を物語っているとも言えるでしょう。


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5. 終着点であることの意味


以上を踏まえると、和田池は、

• 地形的に水を貯めやすく

• 導水勾配の限界点にあり

• 配水拠点として機能し

• 政治的中枢に直結する


という複数の条件が重なった場所でした。

したがって、和田池は「偶然そこに谷があったから池になった」のではなく、

「ここを終着点にすることで、水・農地・都市・権力を一体として制御できる」

そうした明確な意図のもとに選ばれた可能性が高いと考えられます。


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飛鳥川の堰と弥勒石諸説

飛鳥川の堰

 

1. 「堰」と「井堰」の違い

言葉の成り立ちから見ると、役割の広がりが異なります。

堰(せき) 「川の流れを止めるもの」という、土木構造そのものを指す言葉です。単に川を渡るためや、水位を調整するために流れを遮る「堤(つつみ)」の状態を指します。

 

井堰(いぜき) 「堰」によって水位を上げ、そこから特定の場所(田畑)へ水を導くための仕組み全体を指します。つまり、「止める(堰)」だけでなく「引く(井)」という目的が加わった、より高度な利水施設のことです。

 

2. 「井」が表すもの:井戸との関係

「井」という漢字は「井戸」を連想させますが、古代の言葉においては「水が集まり、湧き出し、流れる場所」を広く意味していました。

井(い): 田んぼに水を引くための「掘り割り」や「溝(みぞ)」、つまり用水路のことを指します。

井戸(いど): 「井」の「処(こ/場所)」という意味で、地面を深く掘って水を得る特定の地点を指すようになりました。

つまり、飛鳥川の「井堰」とは、川をせき止めて水位を高くし、そこから網の目のように張り巡らされた「井(用水路)」に水を流し込むための「取水口を兼ねたダム」のような存在だったのです。

 

正式名称と所在小字名

木ノ葉堰 現所在地の小字名「下川戸」もしくは「和田垣内」)

豊浦堰  現所在地の小字名「上川原」

大堰   現所在地の小字名「川原」もしくは「川崎」 

これらの堰の名前は、承保3年(1076)の古文書『大和国高市郡司刀禰等解案(やまとのおくにたけちぐんじとねらげあん)』に、飛鳥川にある「七箇堰」として記載されています。

歴史的には以下の7つが「飛鳥七堰」と呼ばれていました。

木ノ葉堰・豊浦堰・大堰(明日香村)・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰(橿原市)

これらは飛鳥時代から飛鳥の風景と農業を支えてきた堰の名前であり、単なる通称ではなく、日本の河川文化における極めて公的な名称と言えます。

 

 

弥勒石諸説


・基準石説

 昭和32~33年の川原寺発掘調査において、亀石と弥勒石が川原寺の四至(四隅)を示す標示石ではないかとの説が出され、それらの位置が注目されました。

つまり寺辺の高市郡東30条3里の復元をした場合、二つの石造物が30条3里の西南隅と東北隅の坪にあり、現位置が元々据えられていた位置ではないとしても、二次的に里の境界を示すと推論されました。

 また、川原寺の中軸線北への延長線上に弥勒石が有ることから、条里とは無関係なある種の地割に基づく基準石ではないかと言う説もありますが、現在、飛鳥の方格地割りの存在ははっきりしていません。


・橋脚説

明治時代の地図には弥勒石の前に橋が描かれており、堅牢な石、上部の丸い形状から、伝承的に橋脚説があります。今後の調査で橋脚のような立石が見つかると面白いですね。

また、『日本書紀』天武14年(685)に、天皇が行幸したとある「白錦後苑」内の川を渡る小規模な橋ではないかという説もあえうようです。現時点での飛鳥京苑池発掘調査結果から、南北池間にある渡り堤には南池に突出した所があり、渡堤と中島を渡すような橋があったのかも知れません。


・井堰説
 現在の「木ノ葉井堰」は小字「下川戸」に設置されていますが、明治初め頃までは、現在弥勒石の立つ小字「木ノ葉」にありました。弥勒石は、かつて飛鳥川の川底より掘り出し現在地にまで運び上げたと言う伝承があることから、「木ノ葉井堰」に伴う施設の一部であったのではないかとされる説があります。これに伴う伝承があり(動画第3回目の配信で公開予定)、興味が引かれます。

 

・陽石説
この説は、飛鳥の地における信仰の変遷を考える上で無視できない視点です。 

飛鳥には、有名な阪田の「マラ石」や飛鳥坐神社境内の陰陽石をはじめ、男性の象徴を思わせる石造物が点在しています。弥勒石もまた、その独特の縦長の形状から、元来は自然崇拝の一種である「陽石信仰(生殖や多産の祈り)」に基づいたものであった可能性も考えられています。

弥勒石へと名前が変わったのはなぜか考えてみました。想像をたくましくするならば、古くからの土着の信仰が、後から伝来した仏教と結びついた過程が見て取れるようにも思えます。

弥勒菩薩は「未来に現れて人々を救う」仏です。土着の石神に、より崇高な仏教的価値観を重ね合わせることで、地域を守る神としての性格を強めたと考えられます。

また、初期仏教が花開いた地である飛鳥に所在することも考え合わせてみると、更に関連性が深まるよう思われます。

創建当初の飛鳥寺(法興寺)の西金堂に祀られていたのは、「弥勒菩薩(みろくぼさつ)の繍帳(しゅうちょう(刺繍で仏像を表した幕)」であったとされます。このことは、推測の域を出ませんが、この説に何らかの関連があるのかも知れません。

弥勒信仰と言うと、平安時代の末法思想の中での信仰が注目されますが、より古くから救いを求める者にとっては祈りの対象であったのかも知れません。

飛鳥川の治水の話と結びつけると、さらに深い意味が見えるような気もします。

飛鳥川は暴れ川であり、氾濫を繰り返しました。川のそばに立つ弥勒石は、単なる農耕の神(陽石)であるだけでなく、「荒れる川を鎮めるための守護神」として、あるいは「川の氾濫によって流されないようにという祈りの対象」として置かれた側面もあったのではないでしょうか。

 そのため、外見もより弥勒菩薩に似るようにと追加工(口・目の彫り込み)が施されたのかも知れません。

 

 悪い癖で、推測が過ぎたようです。この話には、裏付けできるような資料もまとまった説もありません。ご了解ください。

 

 

飛鳥の地形と開発

飛鳥は、御破裂(ごはれつ)山系から伸びる尾根が平地へと下りてくる場所に位置しています。そのため、南東の標高が高く、北西に向かって低くなるという地形的な特徴を持っています。

具体的に、この地形が飛鳥川にどのような影響を与えているかを見てみましょう。 飛鳥を潤す飛鳥川上流部は、山地を流れる「山川(やまがわ)」です。水源地から集落の中心部に至るまでの距離が短いため流れは急で、地面を削り取る力(浸食作用)が激しいという特徴があります。その結果、川底が周囲よりも低くなってしまい、中心部であっても田畑に水を引くことは容易ではありませんでした。 上流にあたる「栢森(かやのもり)橋」から「祝戸(いわいど)橋」の間だけでも、およそ百メートルの標高差があり、川底が深く削られたV字形の谷も見受けられます。

その一方で、雷丘(いかずちのおか)より下流では、上流から運ばれてきた土砂が積み重なっていきました。時代とともに川底は次第に浅くなり、少しの雨でも溢れ出すような洪水を繰り返すことになったのです。

「世の中は 何か常なる あすか川 きのふの淵ぞ けふは瀬になる」(古今和歌集 933)

このように歌に詠まれた飛鳥川ですが、飛鳥の地を切り拓くためには、この川を制御する「治水」こそが最重要課題であったといえます。

なかでも「木ノ葉(このは)井堰」は、飛鳥川で二番目に広い灌漑面積をもち、明日香村の大字飛鳥や雷、さらには橿原市の木之本町や下八釣町(しもやつり)方面へも水を送り届けています。 それに対し、最も広い面積を潤しているのが「豊浦(とゆら)井堰」です。ここは、かつて蘇我氏とその一族が拠点を構えていた大字豊浦、橿原市和田町、田中町、石川町などといった一帯に給水しており、これら二つの井堰がいかに重要な役割を担っていたかがうかがえます。

 

 


豊浦寺文様石と和田池

豊浦寺文様石

奈良文化財研究所飛鳥資料館HP 豊浦寺の文様石と豊浦隧道に使用された文様石の写真

https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAISI/ukiboriisi.html

 

奈良文化財研究所 明日香村豊浦隧道文様石の調査

https://repository.nabunken.go.jp/dspace/handle/11177/4856

 

豊浦の文様石と水利の終着点「和田池」

明日香村の豊浦(とようら)にある「文様石(もんようせき)」は、飛鳥時代の謎に包まれた石造物の一つです。現在は、推古天皇の豊浦宮跡とされる向原寺(こうげんじ)の境内でその一部を見ることができます。

 

1. 文様石の概要と特徴

この石造物は花崗岩(かこうがん)製で、表面には流れるような曲線や火炎を思わせる独特の浮き彫りが施されています。大きさは長さ約80cm、幅および厚さが約45cmほどです。もともとは一つの大きな石造物であったものが、後世に分割され転用されたと考えられています。

 

2. 所在:向原寺と豊浦隧道

文様石は向原寺の境内だけでなく、意外な場所からも見つかっています。 江戸時代に築造された「和田池」へ水を引くための地下水路(豊浦隧道)において、壁や天井の石材として三つの文様石が再利用されているのが確認されました。模様のある面を裏側にして据えられたものがあると想定すれば、その数はさらに多い可能性があります。

 

この隧道(ずいどう)は全長約200mに及びますが、江戸時代の技術者が何もない状態から掘り進めたのではなく、飛鳥時代(7世紀)に存在した大規模な導水施設の跡や経路を再利用、あるいは参考にした可能性が極めて高いと考えられています。

 

和田池(わだいけ)の築造と蘇我氏の本拠地

和田池の成立については、飛鳥時代を起源とする説と、江戸時代に整備されたとする説の二重構造で捉えるのが一般的です。

 

1. 古代:蘇我氏による「初期和田池」の可能性

考古学および歴史学の視点からは、7世紀にその原型が造られたと推測されます。 和田・田中町一帯は蘇我氏(支族を含む)の本拠地です。この広大な平野部を安定して潤すためには、川から引いた水を一時的に蓄える「調整池」が必要でした。豊浦堰(とようらせき)から隧道を通った水が流れ着く、壮大な水利体系の終着点として、飛鳥時代に池の原型が築かれた可能性は極めて高いと言えます。

また、周辺の石川池(剣池)や軽池などは『日本書紀』にもその名が見える溜池です。これらは単なる貯水施設ではなく、当時の国家事業として最新技術を投入して築かれました。


地形を読み解く「谷池(たにいけ)」の設計 

山裾が複雑に入り組んだ地勢を活用し、谷の出口を堤(つつみ)で塞ぐ工法が採られました。当時の技術者は、水圧を考慮して堤の断面を台形に整え、崩壊を防ぐ角度を計算して築堤していました。

 

2. 近世:慶安年間の大改修(再興)

記録上、現在のような巨大な溜池として完成したのは、江戸時代初期(慶安年間:1648年〜1652年)とされています。中世を通じて荒廃、あるいは土砂で埋まっていた古代の池を、農業生産力を高めるために当時の村々が再興したものです。古代の文様石が隧道の石材として使われたのも、この再興期のことと考えられます。

 

なぜ和田池は「終着点」に選ばれたのか

和田池が単なる溜池ではなく、大規模な導水体系の終着点であった理由を、地形・技術・政治の三側面から整理してみます。

 

地形的条件:水を貯めるのに最適な「谷」

和田池の立地は、甘樫丘から西へ延びる丘陵の末端にあたります。三方を自然の丘に囲まれ、開口部を一箇所の堤防で塞ぐだけで効率よく貯水できる、極めて合理的な「谷池」の地形を有しています。

 

標高条件:自然流下の限界点

豊浦から和田池に至る経路は、終始緩やかな下り勾配が保たれています。 

豊浦寺付近: 約108m

文様石出土地付近: 約105m

和田池: 約102m 

これより西へ進むと地勢が開け、標高も下がるため、溜池として水位を維持することが難しくなります。和田池は、自然流下で運べる物理的な限界点に位置していたと言えます。

水利の性格:配水の拠点

和田池は単なる「貯水槽」ではありません。引水された水を一度集約し、周辺の農地へ安定的に配分するための「結節点」として機能していました。これにより、日照りなどの際にも一定の供給量を制御することが可能となりました。

政治的意味:権力の中枢に直結する場所

和田・田中町一帯は蘇我氏の居住域であり、勢力圏の中枢です。この地に水の終着点を置くことは、蘇我氏の直轄地を潤し、寺院や宮都を支える農業基盤を盤石にするという、政治的な意図に基づいた配置であったと考えられます。

「水の終着点=権力の中枢に最も近い場所」 和田池は偶然の産物ではなく、水・土地・都市・権力を一体として制御するという明確な設計思想のもとに選定された場所だったのです。

飛鳥川「七井堰」による水位管理

 「七井堰」による水位管理の目的

 

「大井堰」「豊浦井堰」「木ノ葉井堰」などの配置は、北へ向かって低くなる飛鳥川の流速を抑え氾濫を防ぐためのものでした。

また、蘇我氏の本拠地や重要施設がこの「南東からの水」を真っ先に受けられる位置にあることは、彼らが水源を掌握していたことを示しています。

飛鳥川で制御された水は、最終的にさらに西側の低い土地を流れる曽我川へと導かれます。

飛鳥川から曽我川へと向かう緩やかな下り傾斜を利用し、網の目のように用水路を張り巡らせることで、蘇我氏は広大な水田開発を行いました。これが、蘇我氏の圧倒的な経済基盤となったのではないかと考えています。


飛鳥川の堰が長い年月を経て上流へと移動しているのは、「堆積する土砂の影響(土砂の堆積による機能低下)」も大きな理由の一つです。しかし、理由はそれだけではありません。地形の変化や、当時の技術的な背景も深く関わっています。

 

飛鳥川は、上流から流れてくる土砂が多い川です。堰を設けると、その上流側には土砂が溜まりやすくなります。

土砂が溜まると取水口が埋まったり、貯水量が減ったりして、必要な水を田畑に送ることができなくなります。

土砂を取り除く「浚渫」には多大な労力が必要です。そのため、土砂の影響を受けにくい、より安定して水を取り込める上流側へと堰を移していくことがありました。

 

しかし、土砂が溜まるのとは逆に、大雨などで川底が深く削られてしまうことも堰の移動の原因になります。川底が下がると、古い堰の高さでは水面まで届かなくなり、取水が不可能になります。

この場合、地形的に高い位置にある上流側に新しい堰を造り直し、そこから長い水路を引いて、もともとの耕作地まで水を届ける方が確実な場合があったようです。

 

飛鳥時代や平安時代の堰は、もちろん現代のようなコンクリート製ではなく、石や木材を組んだ簡素なものでした。

より勢いがあり、かつ水位が安定している上流部へと取水口を求めるのは、農業を維持するための自然な流れでした。

上流へ移動することで、より広い範囲の田畑に「高い位置から低い位置へ」水を配分しやすくなるという利点もありました。

 

飛鳥川のような歴史の古い川では、こうした「堰の移動」の跡を辿ることで、当時の人々がどのように自然と格闘し、工夫を凝らして農業を守ってきたのかを垣間見ることができます。

 

これらの堰の名前は、承保3年(1076)の古文書『大和国高市郡司刀禰等解案(やまとのくにたけちぐんじとねらげあん)』に、飛鳥川にある「七箇堰」として明確に記載されています。

 

歴史的には以下の7つが「飛鳥七堰」と呼ばれていました。

木の葉堰・豊浦堰・大堰・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰

 

これらは1,000年以上前から飛鳥の風景と農業を支えてきた名前であり、日本の河川文化における極めて公的な名称と言えます。