2026年2月11日水曜日

飛鳥川「七井堰」による水位管理

 「七井堰」による水位管理の目的

 

「大井堰」「豊浦井堰」「木ノ葉井堰」などの配置は、北へ向かって低くなる飛鳥川の流速を抑え氾濫を防ぐためのものでした。

また、蘇我氏の本拠地や重要施設がこの「南東からの水」を真っ先に受けられる位置にあることは、彼らが水源を掌握していたことを示しています。

飛鳥川で制御された水は、最終的にさらに西側の低い土地を流れる曽我川へと導かれます。

飛鳥川から曽我川へと向かう緩やかな下り傾斜を利用し、網の目のように用水路を張り巡らせることで、蘇我氏は広大な水田開発を行いました。これが、蘇我氏の圧倒的な経済基盤となったのではないかと考えています。


飛鳥川の堰が長い年月を経て上流へと移動しているのは、「堆積する土砂の影響(土砂の堆積による機能低下)」も大きな理由の一つです。しかし、理由はそれだけではありません。地形の変化や、当時の技術的な背景も深く関わっています。

 

飛鳥川は、上流から流れてくる土砂が多い川です。堰を設けると、その上流側には土砂が溜まりやすくなります。

土砂が溜まると取水口が埋まったり、貯水量が減ったりして、必要な水を田畑に送ることができなくなります。

土砂を取り除く「浚渫」には多大な労力が必要です。そのため、土砂の影響を受けにくい、より安定して水を取り込める上流側へと堰を移していくことがありました。

 

しかし、土砂が溜まるのとは逆に、大雨などで川底が深く削られてしまうことも堰の移動の原因になります。川底が下がると、古い堰の高さでは水面まで届かなくなり、取水が不可能になります。

この場合、地形的に高い位置にある上流側に新しい堰を造り直し、そこから長い水路を引いて、もともとの耕作地まで水を届ける方が確実な場合があったようです。

 

飛鳥時代や平安時代の堰は、もちろん現代のようなコンクリート製ではなく、石や木材を組んだ簡素なものでした。

より勢いがあり、かつ水位が安定している上流部へと取水口を求めるのは、農業を維持するための自然な流れでした。

上流へ移動することで、より広い範囲の田畑に「高い位置から低い位置へ」水を配分しやすくなるという利点もありました。

 

飛鳥川のような歴史の古い川では、こうした「堰の移動」の跡を辿ることで、当時の人々がどのように自然と格闘し、工夫を凝らして農業を守ってきたのかを垣間見ることができます。

 

これらの堰の名前は、承保3年(1076)の古文書『大和国高市郡司刀禰等解案(やまとのくにたけちぐんじとねらげあん)』に、飛鳥川にある「七箇堰」として明確に記載されています。

 

歴史的には以下の7つが「飛鳥七堰」と呼ばれていました。

木の葉堰・豊浦堰・大堰・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰

 

これらは1,000年以上前から飛鳥の風景と農業を支えてきた名前であり、日本の河川文化における極めて公的な名称と言えます。