飛鳥川の堰
1. 「堰」と「井堰」の違い
言葉の成り立ちから見ると、役割の広がりが異なります。
堰(せき) 「川の流れを止めるもの」という、土木構造そのものを指す言葉です。単に川を渡るためや、水位を調整するために流れを遮る「堤(つつみ)」の状態を指します。
井堰(いぜき)
「堰」によって水位を上げ、そこから特定の場所(田畑)へ水を導くための仕組み全体を指します。つまり、「止める(堰)」だけでなく「引く(井)」という目的が加わった、より高度な利水施設のことです。
2. 「井」が表すもの:井戸との関係
「井」という漢字は「井戸」を連想させますが、古代の言葉においては「水が集まり、湧き出し、流れる場所」を広く意味していました。
井(い): 田んぼに水を引くための「掘り割り」や「溝(みぞ)」、つまり用水路のことを指します。
井戸(いど): 「井」の「処(こ/場所)」という意味で、地面を深く掘って水を得る特定の地点を指すようになりました。
つまり、飛鳥川の「井堰」とは、川をせき止めて水位を高くし、そこから網の目のように張り巡らされた「井(用水路)」に水を流し込むための「取水口を兼ねたダム」のような存在だったのです。
正式名称と所在小字名
木ノ葉堰 現所在地の小字名「下川戸」もしくは「和田垣内」)
豊浦堰 現所在地の小字名「上川原」
大堰 現所在地の小字名「川原」もしくは「川崎」
これらの堰の名前は、承保3年(1076)の古文書『大和国高市郡司刀禰等解案(やまとのおくにたけちぐんじとねらげあん)』に、飛鳥川にある「七箇堰」として記載されています。
歴史的には以下の7つが「飛鳥七堰」と呼ばれていました。
木ノ葉堰・豊浦堰・大堰(明日香村)・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰(橿原市)
これらは飛鳥時代から飛鳥の風景と農業を支えてきた堰の名前であり、単なる通称ではなく、日本の河川文化における極めて公的な名称と言えます。
弥勒石諸説
・基準石説
昭和32~33年の川原寺発掘調査において、亀石と弥勒石が川原寺の四至(四隅)を示す標示石ではないかとの説が出され、それらの位置が注目されました。
つまり寺辺の高市郡東30条3里の復元をした場合、二つの石造物が30条3里の西南隅と東北隅の坪にあり、現位置が元々据えられていた位置ではないとしても、二次的に里の境界を示すと推論されました。
また、川原寺の中軸線北への延長線上に弥勒石が有ることから、条里とは無関係なある種の地割に基づく基準石ではないかと言う説もありますが、現在、飛鳥の方格地割りの存在ははっきりしていません。
・橋脚説
明治時代の地図には弥勒石の前に橋が描かれており、堅牢な石、上部の丸い形状から、伝承的に橋脚説があります。今後の調査で橋脚のような立石が見つかると面白いですね。
また、『日本書紀』天武14年(685)に、天皇が行幸したとある「白錦後苑」内の川を渡る小規模な橋ではないかという説もあえうようです。現時点での飛鳥京苑池発掘調査結果から、南北池間にある渡り堤には南池に突出した所があり、渡堤と中島を渡すような橋があったのかも知れません。
・井堰説
現在の「木ノ葉井堰」は小字「下川戸」に設置されていますが、明治初め頃までは、現在弥勒石の立つ小字「木ノ葉」にありました。弥勒石は、かつて飛鳥川の川底より掘り出し現在地にまで運び上げたと言う伝承があることから、「木ノ葉井堰」に伴う施設の一部であったのではないかとされる説があります。これに伴う伝承があり(動画第3回目の配信で公開予定)、興味が引かれます。
・陽石説
この説は、飛鳥の地における信仰の変遷を考える上で無視できない視点です。
飛鳥には、有名な阪田の「マラ石」や飛鳥坐神社境内の陰陽石をはじめ、男性の象徴を思わせる石造物が点在しています。弥勒石もまた、その独特の縦長の形状から、元来は自然崇拝の一種である「陽石信仰(生殖や多産の祈り)」に基づいたものであった可能性も考えられています。
弥勒石へと名前が変わったのはなぜか考えてみました。想像をたくましくするならば、古くからの土着の信仰が、後から伝来した仏教と結びついた過程が見て取れるようにも思えます。
弥勒菩薩は「未来に現れて人々を救う」仏です。土着の石神に、より崇高な仏教的価値観を重ね合わせることで、地域を守る神としての性格を強めたと考えられます。
また、初期仏教が花開いた地である飛鳥に所在することも考え合わせてみると、更に関連性が深まるよう思われます。
創建当初の飛鳥寺(法興寺)の西金堂に祀られていたのは、「弥勒菩薩(みろくぼさつ)の繍帳(しゅうちょう(刺繍で仏像を表した幕)」であったとされます。このことは、推測の域を出ませんが、この説に何らかの関連があるのかも知れません。
弥勒信仰と言うと、平安時代の末法思想の中での信仰が注目されますが、より古くから救いを求める者にとっては祈りの対象であったのかも知れません。
飛鳥川の治水の話と結びつけると、さらに深い意味が見えるような気もします。
飛鳥川は暴れ川であり、氾濫を繰り返しました。川のそばに立つ弥勒石は、単なる農耕の神(陽石)であるだけでなく、「荒れる川を鎮めるための守護神」として、あるいは「川の氾濫によって流されないようにという祈りの対象」として置かれた側面もあったのではないでしょうか。
そのため、外見もより弥勒菩薩に似るようにと追加工(口・目の彫り込み)が施されたのかも知れません。
悪い癖で、推測が過ぎたようです。この話には、裏付けできるような資料もまとまった説もありません。ご了解ください。
飛鳥の地形と開発
飛鳥は、御破裂(ごはれつ)山系から伸びる尾根が平地へと下りてくる場所に位置しています。そのため、南東の標高が高く、北西に向かって低くなるという地形的な特徴を持っています。
具体的に、この地形が飛鳥川にどのような影響を与えているかを見てみましょう。
飛鳥を潤す飛鳥川上流部は、山地を流れる「山川(やまがわ)」です。水源地から集落の中心部に至るまでの距離が短いため流れは急で、地面を削り取る力(浸食作用)が激しいという特徴があります。その結果、川底が周囲よりも低くなってしまい、中心部であっても田畑に水を引くことは容易ではありませんでした。
上流にあたる「栢森(かやのもり)橋」から「祝戸(いわいど)橋」の間だけでも、およそ百メートルの標高差があり、川底が深く削られたV字形の谷も見受けられます。
その一方で、雷丘(いかずちのおか)より下流では、上流から運ばれてきた土砂が積み重なっていきました。時代とともに川底は次第に浅くなり、少しの雨でも溢れ出すような洪水を繰り返すことになったのです。
「世の中は 何か常なる あすか川 きのふの淵ぞ けふは瀬になる」(古今和歌集 933)
このように歌に詠まれた飛鳥川ですが、飛鳥の地を切り拓くためには、この川を制御する「治水」こそが最重要課題であったといえます。
なかでも「木ノ葉(このは)井堰」は、飛鳥川で二番目に広い灌漑面積をもち、明日香村の大字飛鳥や雷、さらには橿原市の木之本町や下八釣町(しもやつり)方面へも水を送り届けています。
それに対し、最も広い面積を潤しているのが「豊浦(とゆら)井堰」です。ここは、かつて蘇我氏とその一族が拠点を構えていた大字豊浦、橿原市和田町、田中町、石川町などといった一帯に給水しており、これら二つの井堰がいかに重要な役割を担っていたかがうかがえます。
