2026年2月19日木曜日

道長の飛鳥行 3

 

間違いじゃないかな?

 山田寺の報告書を読んでいて「おや?」と思ったこと

 2002年に発行された『山田寺発掘調査報告』を、冬期オリンピックの熱戦を応援しながら読んでいたのですが、第Ⅱ章の「山田寺の沿革」で、どうしても手が止まってしまいました。


 今、ちょうど一番関心がある部分なので、余計に気になったのかもしれません。「これは書き間違いではないかな?」と思う箇所を見つけたのです。


(参照https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/897/1/BA58070016_005_018.pdf

 P11 道長来訪 以下引用文


 治安3年(1023)10月、藤原道長は子の教通らを従えて、南都の諸寺と紀伊高野山に参詣した。その状況は『扶桑略記』に最も詳しい。それによれば、10月17日に京を立ちその日は東大寺に泊まり、翌18日は東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・法蓮寺を経て山田寺にいたる。山田寺に関係する部分は次の通り。「次いで山田寺に御すも、すでに夜に入る。前常陸介維時参り来たり、大僧都扶公・威儀師仁満ら、飯膳を弁備す。十九日、堂塔を覧ず。堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず。御馬一匹を権大僧都扶公に給う。」このあと道長一行は、本薬師寺・橘寺をへて龍門寺へ向かっている。:奈良文化財研究所 埋蔵文化財センター『山田寺発掘調査報告』P11)


 この最後の「本薬師寺」という部分ですが、正しくは「本元興寺(飛鳥寺)」ではないでしょうか。

 道長の旅の様子が詳しく書かれている『扶桑略記』を読んでみると、こうあります。

「十九日、山田寺、本元興寺、橘寺を覧て、竜門寺に到着し、宿泊」

「次に本元興寺に御す。宝倉を開きて覧しむ。(後略)」

 これを見る限り、道長が訪れたのは「本元興寺(現在の飛鳥寺)」で間違いなさそうです。おそらく、報告書を作成する際に、名前が似ている「本薬師寺」と書き違えてしまったのかもしれません。


 当時の旅程を考えても、飛鳥から吉野(龍門寺)を目指す途中で、西にある本薬師寺(現在の橿原市城殿町あたり)まで戻るのは、かなり遠回りになってしまいます。

 ただでさえ、この日の道長一行は、龍門寺に着く頃には夜になっていたようです。崖沿いの山道を歩く、なかなかスリル満点な強行軍だったはずですから、時間のかかる寄り道は難しかったのではないでしょうか。

 専門的な報告書の中にも、こうした「迷い込み」のような記述があるのは面白い発見でした。さて、この報告書については、もう一つ気になる点があるのですが……。少し長くなりそうなので、続きはまた改めて。


                        つづく  

みちなが君