2026年2月18日水曜日

道長の飛鳥行 2


道長の飛鳥行 2

山田寺での宿泊

 治安3年(1023年)、藤原道長は高野山参詣の途次、山田寺を訪れて一泊しました(『扶桑略記』)。  山田寺は、舒明天皇13年(641年)に蘇我倉山田石川麻呂が発願し、氏寺として建立を開始した寺院です。大化5年(649年)の石川麻呂の自害により造営は一時中断されましたが、その後に再開され、天武天皇14年(685年)頃には塔、金堂、回廊が完成しました。その伽藍は、講堂が回廊の外に位置する独自の構成をとり、「山田寺式伽藍配置」として知られています。

 道長が訪れた1023年当時の山田寺は、創建から約350年が経過していました。10世紀以降は、次第に衰退の途を辿っていた可能性が高いと考えられます。

伽藍完成期の山田寺のイメージイラスト (風人作・画像生成AI 使用)
(画像をクリックすると拡大します)


 では、なぜ道長は、山田寺を宿泊地に選んだのでしょう。 翌日に訪れる飛鳥寺と山田寺の距離は約2キロメートル弱であり、徒歩でも20分程度、騎馬であればさらに短時間で移動可能です。また、南門を出て南進し八釣集落を経て竹田道を通れば、より短距離での移動も可能であったことを踏まえると、移動距離や行程の都合が宿泊地選定の決定打であったとは考えにくいでしょう。

 また、飛鳥寺は官寺としての格式を保っていたのに対し、山田寺は皇室ゆかりの寺とはいえ、基本的には氏族の寺(氏寺)です。寺格の上では飛鳥寺が勝っていたと考えられます。


 そこで注目すべきは、前回検討した「随行者を含めた一行の規模」です。

 和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い、飛鳥寺は寺籍を新都へ移し、元興寺となりました。本尊の飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)や主要な堂塔は飛鳥の地に残されましたが、一部の部材や屋根瓦は平城京の元興寺へ移築・転用されたことが、現在の元興寺極楽坊などの遺構から確認されています。

 平城京での律令体制下における国家仏教の再編において、最も早く必要とされたのは僧侶の居住空間(僧坊)や実務機能を持つ施設でした。

 これらを踏まえると、平城京への移築に際して優先的に解体・移動されたのは、大人数を収容する機能を持つ「僧坊」であった可能性があります。

 もしそうであれば、道長の時代、飛鳥に残った旧飛鳥寺には、本尊を安置する堂塔はあっても、一行50名前後を収容できるだけの宿泊施設が十分に整っていなかったのではないでしょうか。

 山田寺は、どうであったかと言うと、建久8年(1197)に静胤が著した『多武峯略記』によると、多武峯の末寺として山田寺が次のように記されている。

 「石川寺 法号花厳寺、奮記云、蘇我山田石川麻呂大臣建立也云々、堂塔 僧坊 鐘樓 経蔵等跡皆在之、昔者大伽藍也」 昔は、大伽藍であったけれど、今は、堂塔など堂宇は”跡”になっている。しかし、長元 5年(1034)に検校の善妙が石川麻呂の忌日に法華八講を行ったこと、堂塔・僧坊・鐘楼・経蔵跡が今も残っていることを伝えています。

 このように、確実な証拠は残されていませんが、これが道長一行が山田寺を宿所とした理由の一端だと私は考えます。     

                              つづく