2026年2月16日月曜日

道長の飛鳥行 1


道長の飛鳥行 1


 藤原道長は、寛弘4年(1007年)、42歳の時に大和国の金峯山(山上ヶ岳)へ参詣し、自筆の経典を埋納する「金峯山詣」を行いました。当時の実権掌握者であった道長が、極楽往生や家門の繁栄を願い、険しい修験の聖地へと挑んだこの旅の様子は、自身の執筆による『御堂関白記』に詳述されています。平安京から飛鳥を経由して吉野へ至る道程において、往路の宿泊地として安倍寺を利用したこと、また飛鳥寺を訪れていることが記録されています。路程の詳細は不明ながら、地形から判断して、おそらく芋峠を越えて世尊寺に向かったものと思われます。そして、吉野山を経て、標高約1,719メートルの山上ヶ岳に至る過酷な行程の最終区間を、道長は自らの足で踏破しました。

 こちらも興味深いのですが、この行程はこれ以上、触れずにおきます。


 次いで治安3年(1023年)、晩年の道長(当時58歳)は高野山金剛峰寺を参詣しました。その途次、飛鳥の寺院を訪れたことが『扶桑略記』に記録されています。(山田寺・飛鳥寺・橘寺 )

 道長はこれに先立つ寛仁3年(1019年)に出家していますが(※注:寛仁元年説もあり)、政治的影響力は依然として保持していました。この1023年は、道長が心血を注いだ法成寺の造営が進められていた時期でもあります。1023年は、道長晩年期(58歳)にあたります。(没年は1028年)。

 なお、翌年万寿元年(1024)には、初瀬詣を行い、長谷寺に7日間参篭しています。 平安時代前期に始まった貴族の初瀬詣や大和参詣において、道中の通行体制は一定の整備が進んでいたと考えられます。道長が1007年に安倍寺、1023年に山田寺と、いずれも飛鳥・桜井近辺の有力寺院を宿泊拠点としている点は、これら有力寺院が参詣ルート上の要衝として機能していたことを示しているのかも知れません。


 道長は、寛仁4年(1020)に出家し、法成寺(無量寿院)を拠点として、政治の第一線からは退いていました。 (1017年に摂政、1018年に太政大臣をそれぞれ辞任し、長男の藤原頼通に摂関の地位を譲っていました。)

 しかし、実権は依然として道長が握っており、幼い後一条天皇の祖父として、「御堂関白」と称される最盛期を過ごしていました。

 1023年は、彼が晩年を過ごした法成寺の造営などが進められていた時期です。 

 そのような状況の中での飛鳥行ですので、道長一行が少人数であったはずはないと思い、一行の規模を調べてみました。しかし、『扶桑略記』は編年体の史書であり、出来事の要点を簡潔に記す性格が強く、詳細な記録はみつけることができませんでした。

 調べた限りでの推測にはなりますが、かなりの大人数になったのではないかと思われます。道長は当時なお摂関家の頂点にあり、殿上人・近習・侍所的随員・僧侶・雑色・従者を伴うのが通例のようです。

 他の摂関家外出例や院御幸記事を探してみると、宮中近距離移動では20~30人規模、遠出・寺社参詣では30~70人規模が妥当な範囲と考えられ、総勢50名前後という規模が妥当な数字ではないかと思われます。

 当時、この規模の宿泊者が利用できるのは、大規模な寺院以外には無いと思われます。実際にも、南都の大寺や安倍寺・山田寺・世尊寺・龍門寺などが宿泊地となっています。

                              つづく