拍手コメントありがとうございます♪ m(__)m
どうも性格が似ている方が居られるようで、こういうことになるとムキになって調べ始める!(笑) 本居宣長の菅笠日記の旅の同行者日記まで調べてくださった。感謝。m(__)m
しかし、「くすりや」は書かれていないようだとのことです。どうなっているのでしょうか!
岡村には江戸時代に「御宿 薬屋源太郎」があって、「くすりや」と呼ばれただろうことまでは分かってきた。しかし、宣長が泊まったという根拠は何処にあるのだろうか。在るから泊まったに違いないという、強引な推測しか無いのだったら、この問題は成立しないのではないかと思う。
問題
本居宣長が明和九年三月に飛鳥を訪れた際宿泊した宿の屋号は?
ア とうふや イ やおや ウ うおや エ くすりや
有料検定の問題をブログに書くのは、いけないのかも知れませんが、問題に疑問があるのであえて書きました。ダメでしたら、ご指摘下さい。直ぐに消します。
あっ! 確認してたら、既に主催者から問題と正解が公開されていました。(^^ゞ
http://www.asukabito.or.jp/information/2011/10/post-34.html
西国三十三所名所図会
「治田の神社の鳥居は岡の町の東がはにあり。是を入てすぐに四丁ばかり行バ岡寺也。南ハ多武峯よしの、西は橘寺へ四丁、壺坂道は北ハはせ伊勢かいどう、かくのごとく四方ともに名所なれば、此所に宿りて便宜ゆへ旅人多くはこゝに滞留す。旅舎端麗にして至って賑はし。・・・以下岡寺の記述」
この文章には、旅人が多くて岡寺門前が賑わっており、旅舎も綺麗で繁盛していると書かれています。しかし屋号は書かれておらず、果たして1軒なのか数軒の事を書いているのかは定かではありません。西国三十三所名所図会は、ウィキによると「暁鐘成の編集、松川半山・浦川公佐の画で嘉永6年(1853年)3月に刊行され」とあります。菅笠日記は「明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅した時の日記。」なので、この西国三十三所名所図会の書かれる約80年前の事ということになります。80年前が、どのような状況であったかはわかりませんが、あまり変わらなかったのかも知れませんね。
で、一昨日に主催者に問い合わせをした。出題の先生に聞いていただいているようで、中間報告として、そのように返事をいただきました。だって、問題が成立するのかって事になりません?
もし、宿帳が残っていたとしてもですけど、100点を取らせないためだけに作られた問題みたいな気がする。難しいっていうのとは違うんじゃないかな。ネットや書物を3日掛けて調べまくっても、まだ正解にたどり着けないってのは・・・。
風人は、これは知らないとして、☓にしたのですけど、4択なら25%の確率で正解したかも。で、受験者全員、そういうことになるかも。それでは、飛鳥を学ぶってことにはならないので、問題としてはダメってことじゃないのかな? 正解がどのように渡されたのかは風人は知らないけど、疑問に思った人は居なかったのだろうか。だったら、あまり検定を実施した意味もないのかもと・・・。
藤原宮の東面中央の門の名前を問う問題があった。難しいです!風人は自信は無かったけど、思いつく名前がありました。それは、藤原宮の図面とかをよく見ているので、いつかしら記憶に残っていたのだと思います。受験者は、難問である例として風人に見せておられました。けど、これは難しくても良いのです。間違っても良いのだと思う。だって、調べれば直ぐに素人にだって正解が見つかるんだもん。で、知識を増やすことが出来る。
「解説書が欲しいから参加した」というおばちゃんの意見を思い出す。自分の回答と正解を見比べて、自分の間違った点を見直す事が大事だと思う。そうして、覚えてゆくんだもん。正解と共に、概要でいいから解説が有ればなって思う。
点数だけが大事だった検定には意味はないと、辛口の感想で一件を締めくくっておこう。
「くすりや」の根拠が、史料的にはっきりしているという回答をいただければ報告します。