調べる方向を少し変えてみた。とっても進展したので、記録しておこう。
岡寺門前には
- 天明3(1785)年、二軒の造酒屋があった。善兵衛と伊兵衛。
- 文政13年(1830)、「米屋」(四軒)・「薬屋」(三軒)、「葛屋」・「中屋」・「車屋」(各二軒)、「樽屋」・「横屋」・「傘屋」・「面堂屋」・「醤油屋」・「きぬや」・「まんじゅうや」・「はりまや」・「蕎麦屋」・「色屋」(各一軒)の屋号を冠する家が存在した。 (面堂屋さんは、今、食堂をしている「めんどや」さんに繋がるんだろうな。
- 江戸後期には、7,8軒の旅籠屋が存在した。天保13(1842)年には、薬屋源太郎・かせや平兵衛・玉木屋清五郎・花屋平四郎・京屋幸助・車屋嘉兵衛・玉家清右衛門がこれを営んでいたが、旅客の獲得をめぐる争論が起こった。(平たく言えば、客引きで揉めたようです。(^^ゞ)
が、存在したようです。(続明日香村史下巻による)
これでは、益々何処に泊まったかなんて、菅笠日記に書いてなければ分からないんじゃない?! ほんまに宿帳とか残ってるのか?
風人も、宣長の同行者(本居太平)の日記「餌袋日記」の一部を読みましたが、飛鳥を連れ回されてしんどいとしか書いていないようです。17歳の青年には、ただの田舎だったのかも知れませんね。
全く知らなかった近世の飛鳥を、少し知ることが出来て良かったとしておきましょうか。(笑) 学生の時にこのくらい勉強しておけば、きっと先生と呼ばれる人になっていた。(爆)
あっ! 拍手コメントに、同様に訝しく思われた受験者の方が書き込みをしてくださっています。
コメント、ありがとうございます♪ なかなか良い成績をお取りのようですので、表彰式?でお目にかかれますかね? まっ、飛鳥資料館の前で会っているはずなんですけどね。(笑)
風人も、宣長の同行者(本居太平)の日記「餌袋日記」の一部を読みましたが、飛鳥を連れ回されてしんどいとしか書いていないようです。17歳の青年には、ただの田舎だったのかも知れませんね。
全く知らなかった近世の飛鳥を、少し知ることが出来て良かったとしておきましょうか。(笑) 学生の時にこのくらい勉強しておけば、きっと先生と呼ばれる人になっていた。(爆)
あっ! 拍手コメントに、同様に訝しく思われた受験者の方が書き込みをしてくださっています。
コメント、ありがとうございます♪ なかなか良い成績をお取りのようですので、表彰式?でお目にかかれますかね? まっ、飛鳥資料館の前で会っているはずなんですけどね。(笑)