2018年7月12日木曜日

イライラ

風鼓さんに振り回される日々。イライラが募ります。(>_<) 昨日は、日中機嫌がよくて穏やかだった。様々な手配も順調に進んだので、負担も少なかったのだけど、夜8時を過ぎてトラブルに。(>_<) しくじった~! 助けてぇ~という声が響き渡る。(/_;) そんなの何の問題もないのだけど、これがトラブル化するのが風鼓さんなのです。ふー! 
またまた日付越えのトラブルに。
もう、在宅では無理ですよ! 施設に任せてはどうですか? という声を掛けてくださる方が多い。σ(^^)のためにもそうしなさいと。
σ(^^)もそう思うこともあります。が、結論は、在宅介護を続けます。97.5歳まで看てきました。続いて行く時間は、長くはありません。多くの方々に迷惑を掛け続けますが、最後まで看てやります。m(__)m

風鼓さんと父が結婚した当時、戦後間もない頃、家具はリンゴ箱しかなかったと聞いたことが有りました。嫁入り道具の着物を売って、米に替えたこともあったと。父が務めていた会社の社宅で生まれたσ(^^)は、そこまでは体験していないようですが、貧しかった時代は知っています。でも、それは辛い記憶ではないのですけどね。皆が貧しい時代でしたしね。

風鼓さんは生活を切り詰めて、自分も内職の編み物を頑張っていました。そして、生活にも余裕が出始めた頃、現在の家を買い求めたのです。大阪に向かう途中の電車の中から、「売り家あります」の看板を見たのが切っ掛けだった聞きました。そこが、風鼓さんの母の生家が在った地だったのは全くの偶然だったのですが、そういう運命的な事を風鼓さんは、強く思っていたのではないかとσ(^^)は思っています。
そして、ごく普通の暮らしを50数年過ごしてきました。その間、最愛の夫(父)を亡くし、長男(兄)を亡くし、それでも強い気持ちで生きてきたのだと思います。父は、今、風鼓さんが寝ている部屋で息を引き取りました。風鼓さんは、よく「おとう~さ~ん」と叫びます。寂しいのでしょうね。で、その同じ場所で、自分も死にたいと言います。これは、認知症が進行する以前からのことです。苦労して手に入れて、家族とともに生きた我が家で最後を過ごしたいと思うのでしょうね。
それを実現させてやりたくて、在宅介護を始めたのでした。父は認知症が酷く、終末は大変でした。徘徊が多くて、探し回ったことも多々あったり、暴力を振るうことも有りました。その頃はまだ介護保険制度も無く、σ(^^)たちは認知症の知識もなく、ただただ大変な介護生活を強いられました。ですから、σ(^^)は今、在宅介護が大変なのも身に染みて知っています。でも、風鼓さんの最後の願いをかなえてやろうと思っています。

今、家で死ぬことは、とても難しいのです。病気になれば入院と言うことになります。家でもぶっ倒れるようなことが有れば、救急車を呼ぶことになり、結局は入院生活が待っています。
いろんな人たちのサポートがあって、初めて在宅介護が成り立ちます。それも、運が良ければと言うことになるのだと思います。両槻会の事務局や参加者の皆さんには、とても迷惑や負担を掛けることになりますが、もう、数年の事でしょう。なんとか、乗り越えたいと思います。

優しい言葉を掛けてくださった皆さんに、心よりの感謝とσ(^^)の考えを申し上げました。m(__)m

風人飯
 コンニャクとモヤシの味噌炒め
 豚こま肉の油淋鶏風
父ちゃんが右手が痛いので遊んで貰えず、じっと伏せの姿勢で待っている水無月。

1338174