2016年6月1日水曜日

運勢下がってますか?σ(^^)

長時間、病院なんてところにいると疲れますね。ホンマに病気になりそうな気がします。結果は、暫く分からないので、それまでは大人しくしています。
まっ、一番不安に思っている結果は、99%出ないと思うのですけどね。心は、あまり晴れません。
で、何処でかは分からんのですが、風邪を貰って帰ってしまった。(>_<) だから病院嫌いです。(-"-) 電車かも知れんけど。(^^ゞ 完璧鼻声になっています。

帰宅は夕方になったのですけど、辛かったのでそのまま寝ました。風鼓さんには、初夏野菜のカレーを準備していたので、それで食べてくれました。後で、少しσ(^^)も食べたのですが、あまり味は分からんかった。(/_;) 

元気になって、また美味しく飲み食いしたいものです。(^^) 頑張る!

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れんしさんちのブログで、なにやらウチや相原先生の説が取り上げられていますが、両槻会HPもよく読んでいただいているようで、こちらも改めて興味を持っています。
小墾田宮の推定地マップとかもご覧になったのかな? 

下のマップやイラスト遺構図は、某坊先生のご依頼をσ(^^)が描いたマップなんですけど、わりと分かりやすいかも。G・C辺りが、小墾田宮の候補地かと思います。Gmapなどと照らし合わせると、面白いと思います。

Gは、石神東地区と呼んでいる所です。Cは、奥山廃寺が小墾田寺跡だとすると、お寺と宮のセットと考えれば捨て難い場所ですね。百済大寺と百済宮みたいにね。で、ここらも微高地になっています。

Fは石神遺跡なのですが、Gに比べて土地が低いのです。Gの方が微高地となって建物を建てるには、より良い土地ということが言えます。現高の田んぼの差ですが、1mくらいGが高い。推古朝にGに先行した施設が在ったから、Fの石神遺跡の推古朝の施設(瓦葺建物を含む)は土地を譲らざるを得なかった。そう考えるのが妥当かとσ(^^)は思いました。ので、小墾田宮はGの地下に眠っているとσ(^^)は考えています。推古朝の山田道の推定ラインも、ここしかないかと思いますので、Gに傾きますね。
某坊先生の仰る古山田道に関しては、師匠が早くから仰っていて、その頃、σ(^^)はもう少し北だと言っていたような記憶が有ります。結局、石神遺跡の調査では道路跡は出なかったので、師匠はさすがだと尊敬を申し上げたのでした。(笑) 飛鳥川の渡河を考えると、ここしかないですよね。今も、橋が架かっているし。そういうもんなんでしょうね。

Fの石神遺跡の天武朝の遺構は、小墾田兵庫と考えて良いのではないかと思います。鉄鏃がたくさん出土しているのですが、そんな倉庫群は武器庫だと考えられます。




石神遺跡が迎賓館であったのは、斉明朝のことで、水落遺跡と共に天智朝には施設は廃絶しています。おそらく石神から出火した火と共に水落の施設群も焼けたのではないかという説も有ります。先の第56回定例会では、そのことに触れる余裕は学生には無かったので、カットになっていますが。(^^ゞ 

水落の漏刻台の跡地には、飛鳥京に置かれた留守司が建てられたのではと推測されます。壬申の乱のときに、飛鳥寺の西に軍営が置かれました。軍営と武器庫・留守司が遠いということは考えられませんので、上の推論はかなり高い確率になるのではないかと思うのですが。