FBのσ(^^)の周りでは、この企画が流行っています。(笑) 良いなって思います。それぞれの人らしい良い本が紹介されているように思って、独自路線ですがσ(^^)もマネっこ。(^^ゞ
古い本が多いし、廃却したものも多いので、リンクで見ていただきます。
「万葉びとの生活空間」上野誠著
http://rr2.hanawashobo.co.jp/products/978-4-8273-4078%EF%BD%B05
σ(^^)が、上野誠先生の本を1番に持ってくるのが不思議に思われる方が多いかも。(笑) 実は、この本は、古道というものに具体的な興味を再燃させてくれた本です。そして、上野先生とも、この話をしたことがあります。串揚げ食べながら! (笑)
飛鳥遊訪マガジン36号の咲読に(2008年11月21日発行)、こんな1文を書いています。
第12回の定例会は、飛鳥時代の道路がメインテーマになります。皆さんは、古代の道路というとどのようなイメージを持たれるでしょうか。
私が古道に興味を持ったのは、その道路が巨大な直線道路であった事を知ったからでした。今から数十年前の歴史をまったく知らない頃の話です。(^^ゞ
小さな曲りくねった道が、農道のように続いているようなイメージしか持ち合わせていなかった私には、奈良盆地を貫くような立派な道路が何本も存在していたとは全くの予想外のことでした。それが分かった当時、私はサイクリストでしたので、安易な気持ちで辿ってみたいと思ったのです。古道の痕跡が、今も尚続いているのかどうかも知らなかったのですが、カンを頼りに走り回り始めました。下ツ道を北上して、平城京から中ツ道や上ツ道を南下して帰るような週末を何度も繰り返しました。それが、初期の私と古道の関わり方でした。
知識が伴わないので、その熱もいつしか冷めたのですが、とある書籍が私の古道熱を呼び起こすことになりました。偶然に一冊の本と巡り合ったのです。「万葉びとの生活空間」上野誠著。本には下記の木簡が紹介されていました。
耳梨御田司進上 /芹二束 智佐二把/古自二把 河夫毘一把 右四種進上婢
間佐女 今月五日太津嶋
この木簡は、長屋王邸から発見された、いわゆる長屋王の木簡です。長屋王が所有していた農園からの送り状と考えられます。大和三山の一つである耳成山の麓に長屋王の農園があり、その「耳梨御田」から芹やチシャといった野菜が、平城京内の邸宅に運び込まれていたことを木簡は示しています。木簡には、野菜を持ち運んだ女性の名前まで記してありました。「間佐女」という女性です。「間佐女」は、これらの野菜を持って、耳成山の麓から平城京内の長屋王の邸宅まで歩いたのです。彼女に直接命令を下したのは「太津嶋」という御田の管理人のようです。
長屋王という数奇な運命を辿る人物にも興味はありますが、私は「間佐女」という女性により興味を引かれました。それはまさに、私が耳成の御田であったかもしれない場所に住んでいるからでもあるのですが。
間佐女は、早朝、耳成山の麓から「中ツ道」を北上したのでしょうか、また「下ツ道」に出たのでしょうか。どちらの道をとっても、約20数キロの行程です。古代人にとっては、さほどの距離でもなかったのでしょうか。同じ日の内に帰ったのでしょうか。長屋王邸には、間佐女のような者の宿泊施設があったのでしょうか。好奇心の翼は何処までも私を運んで行きました。
そして、私の古道歩きが始まりました。これは、私の個人サイト「飛鳥三昧」(閉鎖しました)のコンテンツ「飛鳥へ続く道」が誕生したきっかけにもなりました。コンテンツやブログ「風の書」の記事を通して、講演会講師の近江俊秀先生との交流も生まれることになりました。風人の古道への熱い想いは、近江先生によって三度燃え上がらされることになったのです。
というわけで、この頃、下ツ道を平城宮まで歩いています。下ツ道は3度ばかり歩きました。若かった!
ということで、古道愛を再燃させてくれた思い出の本です。この後、大和のほぼ全ても古道を踏破しました。健脚でしたね! 今は、見る影もありませんが。(^^ゞ