第67回定例会で取り上げるのですが、請安先生は乙巳の変のキーマンの1人ではないかと思うのです。
いろいろと勉強を開始しているのですが、後の天平宝字4年(760)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に国に行なはる」と、鎌足の言葉として記述しています。三国志の悪役として有名な董卓に比肩する暴政を行う者として蘇我氏を表現しているのですね。こういう表現って、三国志演義のファンでもあるσ(^^)には、ニンマリなのです。(笑)
鎌足が本当にそういったのかどうかは別にしても、遅くとも天平時代には三国時代のエピソードは知られていたのですね。そのような知識は、遣唐使たちが持ち帰っているのでしょうか。
『日本書紀』中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったと書かれています。南淵請安は、遣隋使として大陸に渡りますが、滞在期間中に大きな政変を見ることになりました。隋から唐への政変です。隋は2代目の煬帝が大土木事業や高句麗遠征などで人民を苦しめたとして、従兄弟にあたる李淵が挙兵し煬帝の孫から禅譲という形で政権を奪取しました。李淵が唐として統一しましたが、「玄武門の変」で李世民は兄を殺害し、父親を幽閉し実権を掌握することになります。
この政変を見ていた遣唐使たちが帰国したことが、大きな歴史の流れのターニングポイントになったと考えると、彼らの存在の大きさが見えてくるように思います。ただ、請安がいつまで存命だったのかがはっきりしません。旻や玄理が乙巳の変以降に国博士になっているのですが、大化改新政府の中に請安の名前はありません。彼は乙巳の変と言うクーデターを見届けたのでしょうか。それとも・・・・。
そんなことを思いつつ、次回定例会は稲渕・朝風を歩いてみたいと思っているのです。
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